この価格帯で Atmos にチャレンジできるなら踏み込んでみてもいい
- なぜイマーシブ用のスタジオを作ることにしたのですか?
1年半ほど前から Dolby Atmos(以下 Atmos)に興味を持ち始めていたのですが、実際に Atmos の部屋を作ろうと決めたのは昨年11月の iLoud Precision シリーズの発表会が行われた日でした。会場に iLoud MTM で組まれた7.1.4chのモニターシステムがあって、そこで初めて Atmos の音を聴いて正直ビックリしました。このサイズで、この価格帯で Atmos にチャレンジできるなら踏み込んでみてもいいなと。そう思って翌日に iLoud MTM Immersive Bundle を買いに行きました。サブウーファーも購入して、大体80万円くらいで Atmos のミックスを試せるようにして、それがファーストステップでした。
- NK SOUND TOKYO に組んだのですか?
5つあるスタジオのひとつ、STUDIO AQQA です。ここはもともと僕の会社のエンジニア達がミックスによく使っていた部屋で、隣にブースもあるので、Atmos ルームを2つ作ろうと決めました。早速 iLoud MTM でモニターシステムを組んで、Apple Music でいろんな音楽を聴いてみたら、2Dが3Dになったかのような世界観に色々な可能性を感じて、これは音楽の楽しみ方がまた増えたなと。遊びでミックスをしてみたら思った以上に難しかったけど、楽しい。もうやるしかないなと。
- iLoud MTM がイマーシブへの入口になったのですね。
iLoud MTM Immersive Bundle が出てきた時、他社はまだどこもそういう製品を発表していなかったので、「IK は先に動いているな」と感じましたね。イマーシブで曲を作りたい作家さんが、自宅で手頃に手を出せるアイテムとして最適だし、ある程度のキャリブレーションがかけられて、細かいことは何もしないで全部スピーカーに任せられる。安心して 7.1.4ch のセットを組めるのが魅力ですね。
- サウンドの印象は?
全然悪くなかったです。3.5インチウーファーとは思えないほどパワーがあって、他社の5インチくらいのパワーが感じられるからコスパがいい。スピーカーがたくさん必要なので、なるべくコストを抑えられる方が嬉しいじゃないですか。それと壁にマウントしなくて済むのも大きなメリットでした。発表会で iLoud MTM がマイクスタンドにセットされていたのを見て、これは日本に合っているなと。僕も全部 TRIAD-ORBIT のマイクスタンドでセットしました。TRIAD-ORBIT の強度は iLoud MTM の重さに耐えられるので、簡単にマウントできました。
iLoud Precision MTM の音を聴いてビックリしてしまった
- セッティングは簡単でしたか?
Dolby のスペック内で、スピーカーの理想的な配置を教えてくれる、スプレッドシートがあるんです。そのスプレッドシートに入力すれば、角度や音量レベル、タイムディレイも全部、正確で最も理想的なセッティングを教えてくれます。でもエンジニアとして音を聴き始めると、もっとこだわりたくなってしまって、L/Rだけを iLoud MTM から iLoud Precision 5(以下 Precision 5)に入れ替えました。というのも、発表会で iLoud Precision MTM(以下 Precision MTM)も展示されていて、その音を聴いてビックリしてしまったんです。僕は基本的にスピーカーにこだわらないというか、ある程度良いスピーカーならミックスはできると思っていたし、IK に対して「スピーカーメーカー」という認識がなかったので、候補にも思っていなかったんですね。でも Precision MTM の音を聴いた時、「このスピーカー、ありじゃない?」って思ったんです。で、とりあえずコストを考慮してL/Rだけを Precision 5 に変えてみたら、すごく良くて。でもそうすると、サブウーファーのパワーが足りなくなったので、ウーファーサイズを上げたら周りのスピーカーも1個1個変えたくなってしまい...。L/Rを iLoud Precision 6(以下 Precision 6)に変えて、ワイドL/Rを Precision 5 にしてみたら、今度はセンターの iLoud MTM が気になったので、Precision 5 に変えたわけです。ここまで来たらもうキリがないので、残りのサラウンドL/RとリアL/Rも全部 Precision 5 にしました。
- サウンドの基準が iLoud Precision シリーズに移っていったわけですね。
そうなってしまいました。それに合わせてサブウーファー(LFE)も2台目を買って、現在は9.2.4chになりました。LFEをデイジーチェーンしているだけなので正式には9.1.4chなんです。そして最終的に、気になっていた Precision MTM を1ペア買ってみようと思って、L/Rを Precision MTM に変えたらバッチリ部屋が決まりました。すごく変わったセッティングなんですが、L/Rが Precision MTM、センターとリアが Precision 6、ワイドL/RとサラウンドL/Rが Precision 5 になっています。トップを4つにするか6つにするかで悩んで、今はとりあえず4つにしています。トップは iLoud MTM が丁度良くて、この形で2ヶ月くらい使っています。
- ようやく落ち着いたんですね。
落ち着きましたね。少しずつ部屋をアップグレードしていったのには理由があるんです。僕は X-MONITOR (Precision シリーズ用のコントロールアプリ)を一切使っていないんですよ。Precision シリーズはもともとスピーカーの中でちょっとした補正がかかっているじゃないですか。僕はその音に感動しているので、さらに補正をかけると感動しなくなってしまって。この部屋の作りも含めて、どのポジションにどのスピーカーを置くかで聴こえ方を調整しています。スピーカーの組み合わせと、ハイパスをフルバンドにするか35Hzにするか、50Hzにするかで、理想的な補正をかけているわけです。
- サブウーファーは何を使用していますか?
Genelec 7060 を2台です。Precision シリーズとのマッチングがすごくいいですね。iLoud MTM だけで揃えていた時は Genelec 7350 でしたが、これは発表会が行われた RITTOR BASE のセッティングを真似しただけです(笑)。
IK のスピーカーの音は今の時代に完璧に合っている
- Precision シリーズとイマーシブオーディオの相性はいかがですか?
相性の良さの証拠が、この部屋だと思うんです。Precision シリーズの MTM と 6 と 5 をゴチャ混ぜにした音が理想だと思うのですが、それができること自体、イマーシブとの相性がものすごくいい証拠です。他社のスピーカーだと、同じシリーズでもサイズを変えたら結構音が変わることが多いけど、Precision シリーズは本当に音が似ている。それはおそらく周波数的なことではなく、タイミング的なことな気がするんです。リニアフェイズであることで、多少音が違ったとしても、ウーファーから出る音とツイーターから出る音の、耳に当たるタイミングの相性がいいんですよ。トランジェントの出方が一定というか、そこに差を感じないからミックスしやすいですね。
- リニアフェイズだからこそできるセッティングなんですね。
スピーカーにこだわらない僕ですら、IK のスピーカーの音は今の時代に完璧に合っていると思います。リニアフェイズのトランジェントはもう衝撃的ですよ。トランジェントというとツイーターが強いかのように思えるかもしれませんが、Precision シリーズはそうではなくて、まったく音が痛くない。ローエンド重視で作られているんでしょうね。そうすればどの部屋で作業するとしても、ローエンドを抑えることは簡単にできるから、そのための補正ソフト(X-MONITOR)だと思うんです。
- 自宅に導入する場合は X-MONITOR が力を発揮しそうですね。
そうかもしれません。でも、すでにリニアフェイズされていると考えると、好きな方を選べばいい気がします。場所を選ばないというか、LとRをどれだけ離しても音像が崩れない。それがリニアフェイズの良さなんでしょうね。よく日本では「正三角形に置いた方がいい」とか言うじゃないですか? 僕はそれを守っていないんだけど、 iLoud Precision ならどこに置いても音が変わらないんですよ。もちろんファンタムセンターは広がるので、そこの調整で自分好みに合わせるわけです。
- スピーカーのEQはイジりましたか?
ハイパスだけです。フルバンドにするか、35Hzにするか50Hzにするかのどれかです。「ローをスッキリさせて、サブウーファーにその周波数を再現させる」という考え方があまり好きではないし、Precision シリーズもサブウーファーありきでは設計されていない気がします。ツイーターとウーファーに対して、内蔵パワーアンプ1台でパワーが足りるように設計されているのだから、それがこのスピーカーのあるべき姿だと思うんです。そのローを切ってしまうとパワーアンプの働き方が、聴いていて気持ち良くない。せっかくすごくいい感じに鳴ってくれているので、そこは補正したくなかったです。
- Precision シリーズの、MTM と 5 と 6 の違いは?
5 と 6 の差はあまり感じなくて、MTM は別格です。5 と 6 はウーファーサイズによってクロスオーバーポイントが違うので、どちらをワイドとセンターに使うかは、歌を聴いて判断しました。自分の好みでは、6 をセンターにした方が歌の聴こえ方が良かったです。ワイドは 6 だとちょっと強過ぎたので、5 にした方がL/Rに置いた MTM との相性がいいと思いました。あと、5 はツイーターの高さが 6 よりも3〜4cm低いんですよ。正面にPCのモニターがあるせいかもしれないけど、センターのスタンドを2cm高めにして 6 を置いたら、歌の聴こえが良くなりました。
- そうして完成したモニターシステムの評判はいかがですか?
誰が聞いても「IKがこんな音を出せるなんて…」ってビックリされます。大体みんな1000万〜2000万円クラスのモニターシステムを選びますけど、この部屋のセットは全部で200万コース。Precision シリーズは決して安い製品ではないけど、200万でイマーシブが組めて、エンジニアの耳にも合って、1000万クラスのモニターとイコールになれるのは、すごいですよ。
ステレオが Atmos になることで、ちょっとした刺激になればいい
- Atmos への対応作品は増えつつありますか?
日本はなかなか Atmos に移行していなくて、スピードが遅いなと感じています。アメリカだとミキシングエンジニア達が動いて流行り始めた流れだったと思うんですが、日本で Atmos が盛り上がるのはもっと先になってしまうのかな...。日本ではコストに対する考え方がまだ勝っているので、手軽に Atmos を試せるのはインディーズレーベルしかない。逆に言うと、手軽にイマーシブのシステムを組んでいるエンジニアさんにはチャンスがきますよね。大きな案件になると Atmos のミックスをするのにコストがかかり過ぎて、多くのレーベルは簡単に手が出せない状況です。でも、これはエンジニアが頑張らないといけないことだと僕は思っています。バジェット云々関係なく、ステレオのミックスを頼まれた時に Atmos バージョンもミックスしちゃって、それをクライアントに聴かせて興味を持たせる。その活動をアメリカのいろんなエンジニアが何年間もやって、やっとレーベル側からオファーが来るようになったんです。日本の Atmos の盛り上がりはまだスタートラインに立ったばかりなので、エンジニアが頑張れば、2、3年後にはレーベル側がもっと興味を持ってくれるんじゃないかなと思っています。
- 普及すれば音楽の表現方法にも影響がありそうですね。
アーティストさんや作曲家さんがイマーシブの面白さを感じてくれたら、曲を書く段階で作り方が大きく変わると思います。それが楽しみなんですよ。今までは2つのスピーカーしか使えなかったけど、横も後ろも上もすべてのXYZアクシスが使えるとなると、音楽性の広がりがすごく出る気がしていて。それは曲を書く時やトラックメイクにすごく影響すると思います。作曲家さんやアーティストさんに全然違う想像力というか、世界観が働くといいですよね。
- Atmos 以外のイマーシブのフォーマットも考えていますか?
今は考えていないです。日本はとにかく Apple ユーザーが多いので、Apple Music を大事にしようと考えていて、とりあえず Atmos だけをやる考えです。一般の人が聴いた時に、何かを感じてくれたらいいかなと。Atmos 対応のイヤホンやヘッドホンを使うと、Atmos のオン/オフができて、今までの聴き方と比較できるのも面白いです。音楽に詳しい人はその違いをすごく感じやすいと思うけど、一般の人も、モノがステレオになった時みたいに、ステレオが Atmos になることでちょっとした刺激になればいいかなと。あまり細かく考えずに、音楽の楽しさがまたもっともっと盛り上がればいいかなと思っています。
写真:桧川泰治
ニラジ・カジャンチ
エンジニア。アメリカ生まれ、日本育ち。スタジオ“NK SOUND TOKYO”のオーナーでもある。アメリカでキャリアをスタートさせ、マイケル・ジャクソン、リル・ジョン、ティンバランドらの作品を担当。2000年代後半に来日。以降、三浦大知、安室奈美恵、大貫妙子、RIRI、SUGIZO など、多くのアーティストの作品を手掛ける。