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音楽クリエイターのための Dolby Atmos 入門 ④アトモスミックスの基礎知識

圧倒的な没入感をもたらす、いま注目の音楽体験 Dolby Atmos。新たな表現形態として気になっている音楽クリエイターもいるのでは? その1人である作・編曲家の岩崎元是氏が、Atmos に精通するエンジニアの齋藤晴夫氏に様々な疑問をぶつける対談の第4回。今回はミックスのやり方について聞きます。

録りの段階からアトモスを意識した方がいい


前回記事【第3回 スピーカーの設置方法】

岩崎:齋藤君が Dolby Atmos(以下、アトモス)のミキシングをする時に心掛けていることは?

齋藤:まずオーダー内容を確認するのが大前提ですが、大抵は「ステレオミックスの延長のイメージで作ってほしい」と言われることが多いと思いますので、ステレオミックスが先にある場合は、そのイメージを壊さないようにします。

岩崎:ステレオミックスのイメージを壊さないアトモスミックスって...2ミックスの概念をぶち壊してくれる可能性を持っているのがアトモスなんだから、ちょっと相反しているよね。

齋藤:それと基本的に、配信する楽曲のサイズはステレオとピッタリ同じでないといけません。

岩崎:それはかなり厳密に?

齋藤:タイミングに関しては誤差は50msだったかな? サイズはぴったりに合わせてしまいます。

岩崎:もしもクライアントからのオーダーがなくて、「自由にアトモスミックスをやってくれ」と言われたら何をする?

齋藤:いかに広がりを感じられるようにするかを重視します。サウンドがきれいに外側に展開されていると随分印象が違うので、せっかくやるなら広がりを重視します。

岩崎:例えばピアノの弾き語りのような、残響で空間を感じられる作品の方がミックスしやすいのか、ウォール・オブ・サウンドみたいに音数がいっぱいある作品の方がやりやすいのか。もしくは派手めなK-POPみたいに、超絶な重低音からガチャガチャいろんなシーケンスまで入っている曲もあるけど、斎藤君が思うに、アトモスにはどのタイプが向いているのかな?

齋藤:向いているジャンルというのは、これといってないですね。音数が多ければいっぱい配置できるし、配置だけで空間を作ることもできます。逆にソロ演奏とかで音数が少ない場合は、そもそもの空間の音場で作っていきたいので、できれば録音時から関わりたいけど、そうでなくてもなんとかします。

岩崎:でも「デッドにしてくれ」って言われたら、ちょっとしんどいよね?

齋藤:マイキングで攻めないとちょっと難しいですね。そういうマイキングで録っていないと空間が作れないので。

岩崎:ということはアトモスを最終形とするならば、録りの段階からそれを意識した方が圧倒的にいいということだね。

齋藤:そうですね。

ステレオリバーブを組み合わせることも、アトモス用のリバーブを使うこともある


岩崎:定位の付け方は自由だよね? 例えば歌物のポップスだとすると、ステレオL/Rで作るファンタムセンターと、センタースピーカーが鳴るハードセンター。どっちがいいんだっていう論争はサラウンドの頃からあったけど、アトモスになってもそこは自由ですか?

齋藤:やりやすいのはファンタムセンターかもしれません。他のパートがファンタムで出ている中で、 ボーカルだけをハードセンターにすると浮いてしまうので。ボブクリ(エンジニアのボブ・クリアマウンテン)みたいに、キックもスネアもベースもハードセンターで出す人ならできるんですけど。

岩崎:ボブクリはほぼみんなセンターから出しているの?

齋藤:だからあんなにメーターが振れるんです。あんなにセンターのメーターが振る人はなかなかいません。

岩崎:それでいてすごく広がっているからすごいね。スタジオ版でもライブ版みたいに広いもんね。

齋藤:リフレクションの作り方がすごく上手なんですよ。それをサラウンドに落とし込んでいる。

岩崎:ボブクリはステレオ作品でも80年代から2000年代前半まで、圧倒的な仕事量でヒットを飛ばしたじゃない。ポップ/ロック系の間違いなく3本指に入るようなエンジニアだけど、イマーシブでもやっぱりすごいの?

齋藤:すごいですね。新しい作品のアトモスも、昔の作品のアトモス版も作り続けています。

岩崎:なるほどね。でもセンターに関しては、人間はファンタムの方が聴き慣れているってことですね。

齋藤:だからってそこに固執する必要もないし、好きな方法でやって全然構わないと思いますけどね。

岩崎:僕はリバーブが大好きで結構使うんですが、アトモス用のリバーブってあるんですか?

齋藤:あります。

岩崎:全体にブワーンと広げたり、特定のスピーカー位置にはアサインしないとか、そういう設定ができるリバーブってこと?

齋藤:はい。例えば、センターにアサインしないこともできるし、LFE にかけるかどうかも調整できます。ステレオリバーブでもLとRが違うように、それぞれ全部違うものが鳴っています。それがいわゆるアトモス用のリバーブですね。例えば僕がホール系でよく使うのは LiquidSonics Cinematic Rooms Professional というプラグインです。

岩崎:全チャンネルに違うものを演算で出しているってこと? 例えばリアだけプリディレイを長くしたりもできるの?

齋藤:パラメーターを色々いじれるので、例えばフロントのリバーブをどうにかするとか、そういう塊単位ではできます。

岩崎:擬似的ではなく、アウトの数だけ演算で広げるというか、空間を作ることは、アトモス用のプラグインであればできるということですね。

齋藤:そうですね。でも、ステレオのプラグインを組み合わせて、少しずつパラメーターを変えたり、違うパラメーターにして、それらを組み合わせてアトモスにしてしまうこともあります。ステレオからミックスを始める場合はその方が楽なこともあるし、お気に入りのリバーブにアトモス版がないこともあるので。ちょっと変則的ですが、フロントLRは通常のステレオで、センターとサイドとリアの組み合わせを5.1chや5.0chで作って割り当てて、クワッド(4ch)をハイトにして、これらで7.1.4chを作ってしまうこともあります。

岩崎:ステレオリバーブを組み合わせて作ることもできるし、アトモス対応のリバーブもあるというわけだね。

Cinematic Rooms
▲Cinematic Rooms Professional。最大9.1.6ch対応で、フロントL/R、リアL/Rなど、各々のステレオペアを個別のステレオエフェクトのように扱える。ほぼすべてのパラメーターを細かく操作でき、リアのみ減衰時間を変えたり、フロントだけ異なるフィルター処理をしたり、ハイトのみディレイを適用したりすることも可能

最大のネックはマスターのダイナミクスのコントロール


岩崎:同じようにアトモス用のEQもあるんですか?

齋藤:今はいっぱいあります。全チャンネルにインサートできたり、同時にパラメーターを動かせたり、個別にパラメーターを動かすこともできます。

岩崎:コンプレッサーは?

齋藤:まあまあ、あります。ただアトモスは例えばマスターに関しては最大で128chのマスターを持っていて、それらがリンクしたゲインリダクションをさせるのは簡単ではないので、プラグインのキーインを使ってリンクするように割り当てていくのが良いと思います。アトモスのミックスで最大のネックになるのは、マスターセクションのダイナミクスのコントロールなので、そこがクリアできたら、あとはチャンネルがやたらと増えたくらいしか変わらないです。ただ結果として、かなりマシンパワーは必要ですけどね。

岩崎:音圧戦争ってずっとあるじゃないですか。−10dBを切ったあたりからとてつもなく音がデカくなってきて、一時期、日本のポップスではピークが−6〜7dBなんて当たり前になって。今やK-POPだと−4dBとかもあるよね。CDって甘いというか、規定がないんだよね。ストリーミングの場合はどうなの?

齋藤:ステレオは自由です。だからCDと同じものもあれば、Apple Music や Spotify 用に少し下げているものもあります。

岩崎:ダウンロード作品はほぼCDと同じだよね。アトモスの世界は?

齋藤:これは決まりがあって、インテグレーテッドで最大−18LKFSです。曲の最初から最後までを全て計測したものを平均した結果が−18LKFSということです。

岩崎:12本のラウドネスメーターみたいなものがあるんですか?

齋藤:フルミックスのアトモスから、5.1chにダウンミックスした状態のインテグレーデッド・ラウドネスを測るんです。方法はリアルタイムでも計測できますが、Dolby から出ている Renderer なら納品ミックスから簡単にオフラインで計算もできます。マスターファイルを読み込んで、メニューから「ラウドネス・アナライズ」を選ぶと、5.1chにダウンミックスした状態でアナライズされます。5.1ch時代のテクニックをそのまま使っているようですが、それ以上のことはわかりません。トゥルーピークは−1dBが規定です。

岩崎:そこだけはサラウンドで止まっているんだね。

ダイナミクス
▲齋藤氏が携わった楽曲、春猿火「巫女」でのダイナミクス系エフェクトの使用例。チャンネルベースのマスターからセンドされたキー信号を、各オブジェクトマスターにインサートされたダイナミクスが受け取り、ゲインリダクションがリンクするようにしている

チャンネルベースとオブジェクトベース


岩崎:ステレオミックスとアトモスミックスの互換に、バイノーラルが関係するということはある程度わかったんですが、前回見せてもらった、やたらすごい数のマスターフェーダーと、それに関連する「オブジェクト」という概念がちょっとわからない。クリエイターにもわかるオブジェクト概念というのを教えてもらえますか。

齋藤:チャンネルベースとオブジェクトベースという考え方があって、チャンネルベースは今までの、例えば5.1chまでの考え方と同じです。「再生されるチャンネル数」=「制作されるマスターファイルのチャンネル数」だと考えれば間違いありません。それに対してオブジェクトベースは、エフェクトや音量などは Renderer に入る前に処理しますが、パンニング情報だけは例えば7.1.4の12chの中に定位を固定してから記録するのではなく、メタデータとしてエンコードして収めます。それが製品になって、ユーザーが再生する環境に応じて再生機器のデコーダーでデコードされ、再生されます。

岩崎:なるほど。

齋藤:なので、トラックの使い方は自由ですが、パンニングのメタ情報はオブジェクトの数の最大118個までが別々に作られます。オブジェクトトラックごとに1つずつメタデータがあるという感じです。これの何が良いかというと、再生されるスピーカーの数が変わった時の位置情報はデコードされる時に決まるので、出力のフォーマットが何であっても必ず最適化されるんです。7.1.4chでなくても、5.1.2chでも5.1chでも9.1.6chでも、最適なパラメーターでパンニングされる理由がこれです。

岩崎:レベルは?

齋藤:各トラックのレベルは、ミックス時のそのままの状態で記録されて、チャンネルが減る時はダウンミックスの係数で設定された値が実行されます。

岩崎:なるほど。

齋藤:だから自由度が上がるんです。例えば、映画館によってスピーカーの設置数がかなり違うじゃないですか。フルスペックで64個あるところもあれば、すごく小さいところだと7.1.4chしかないところもある。それは、どんなところでも最適化できるように、Dolby が設計しているからなんです。

岩崎:それがオブジェクトベースということか。

齋藤:そうです。オブジェクトに関しては、オブジェクトごとのオーディオデータをパンニングのメタデータと共に収めるので、実際のオーディオで再生されるチャンネル数で定位が固定された状態で作るわけではないんです。

岩崎:ものすごくたくさんのマスターフェーダーがあるじゃないですか。メーターが全部ステレオになっているのはなぜですか?

齋藤:このプロジェクト(下画像)では、2chをステレオペアで使うオブジェクトというのをやっていて、音楽の場合はこの方がミックスの作業上、都合が良いことが多いです。1つだけある太いメーターがチャンネルベースで「ベッド(Bed)」と呼ばれ、デフォルトで10chあります。それ以外がオブジェクトベースで「オブジェクト(Object)」と呼ばれ、最大118chあります。それらの合計が128chで、チャンネルベースとオブジェクトベースが混在しているんですよ。これがアトモスの特徴です。ちなみに、ベッドは削除することができません。

チャンネルベースとオブジェクトベース
▲黄緑枠内がチャンネルベース、黄枠内がオブジェクトベース。アトモスはこの両方が使用されている
パン
▲齋藤氏が携わった楽曲、suitcase rhodes「quelque part」でのオブジェクトトラックのパンニング例。任意のトラックをオブジェクトに設定してパンニングすると(黄線)、Pro Tools のパンナーを通じてパンニングのメタ情報が Renderer に伝わり(水色)、Renderer 側でパンニングが処理される

フックアップ:ベッドとオブジェクトの両方が使えると何がいいんですか?

齋藤:まずアトモスの仕様として、1-10のベッドは削除できません。それと共に、ベッドにはそれなりに利点があります。オブジェクトをどんどん使っていくと、その分オーディオトラックが増えるので、どんどんファイルサイズが大きくなります。例えば Embody のコンテストで同じ曲同士を比較すると、僕のミックスはベッド10ch+オブジェクト26ch=合計36chで、ファイルサイズは945.4MBでしたが、3位のジャスティン・グレイはベッドとオブジェクトを128ch全て使っていて、ファイルサイズは3.29GBでした。

フックアップ:なるほど。

齋藤:またアトモスの仕様として、地上の各スピーカーに完全にスナップさせ、かつ静止させている定位に関しては、ベッドで作ってもオブジェクトで作っても必ず同じになるので、わざわざオブジェクトにする利点はありません。それなら、そういう音はベッドでミックスした方がいいようにも思います。それに対して上方空間でベッドを使う場合、左右はありますが前後の概念が無いので(※ベッドは最大7.1.2ch)、上方空間で前後方向に定位させるにはオブジェクトを使うしかありません。また、9.1.6chや9.1.4chでは地上のスピーカーにワイドL/Rが追加され、フロントL/RとサイドL/Rの間のフロント寄りに入りますが、このスピーカーはオブジェクトでしか鳴らせません。

フックアップ:ベッドとオブジェクトの仕様を理解して、うまく使い分けるといいんですね。

齋藤:ただ、できるだけオブジェクトを使って、パートごとにトラックを分けておくと、将来 Dolby のテクノロジーが発達した時にもしかしたらいいことがあるかもしれません。コンテスト3位のジャスティンはそういう考えで、可能な限りオブジェクトを使って、パートごとにトラックを分けているそうです。

オブジェクトトラックとベッドトラック
▲トラック1〜10はベッド、11以降はオブジェクトと呼ばれる。オブジェクトトラックの配置は、画面中央右の3Dグラフィック上に緑の点で表示される。ここにはベッドトラックは表示されないが、DAWのサラウンドパンナーで最大7.1.2chに配置される

第5回に続く(2025年3月27日公開予定)

写真:桧川泰治

岩崎元是(いわさき もとよし)

作/編曲家、ボーカリスト。80年代ジャパニーズ・シティポップ全盛期のアーティスト活動を経て、その後スタジオ・コーラス・ミュージシャン、作/編曲家として多くの作品に参加。J-POP、アニメ、劇伴、ゲーム関連、CM等、幅広い制作に携わり、近年はミキシング、マスタリング等のエンジニアリングも自身で手がける。クリエイトの範囲を益々広げる、自称「歌わぬシンガーソングライター」。

齋藤晴夫(さいとう はるお)

1987年日本電子専門学校卒業。discomate studioでの研修を経てmit studioに所属。25歳でアシスタントを卒業、チーフエンジニア就任。1999年4月、12年勤めたmitスタジオを退社。元ビクタースタジオのエンジニア臼井伸一氏と“THERMAL MIX”を結成。フリーランスエンジニアとして活動開始。2019年、Dolby Atmosと出会い、翌年自宅にDolby Atmos 7.1.4 Mix環境を構築。2023年、アメリア カリフォルニア州のEMBODY社が主催する“Overdrive Immersive Mix Conpetition”にて優勝。現在もDolby Atmosのレコーディングからミックスまでを実践中。
https://www.haruosaitoh.com
・Dolby Atmos 関連に特化した note 記事
https://note.com/haruo_saitoh

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