Hookup,inc.

音楽クリエイターのための Dolby Atmos 入門 ⑤ 参考音源とこれからのアトモス

圧倒的な没入感をもたらす、いま注目の音楽体験 Dolby Atmos。新たな表現形態として気になっている音楽クリエイターもいるのでは? その1人である作・編曲家の岩崎元是氏が、Atmos に精通するエンジニアの齋藤晴夫氏に様々な疑問をぶつけます。最終回では今後の Atmos への展望を語ります。

アトモスの制作に興味を持ったらチャンネルベースから始めてみる


前回記事【第4回 アトモスミックスの基礎知識】

岩崎:いま Dolby Atmos(以下、アトモス)のミキシングを引き受けるエンジニアさんは、どれくらいいるんですか?

齋藤:結構いると思います。やりたい人が増えているし、今までできなかった人も誰かと一緒にやることが結構あって、体験している人は増えているんじゃないでしょうか。

岩崎:「アトモスはやらない」と言う人もいるでしょ?

齋藤:やらない人もいます。やったことがない人もいるし、やらないと言っている人もいると思います。ただ、若い人ほどたぶんやっているし、今の専門学校や大学でアトモスの施設がある学校では必修になっているみたいなので、これから入ってくる人はほぼみんな知っている状態になると思います。僕がアトモスを始めたのは2019年でしたが、今みたいに簡単にできるシステムがなかったんですよ。すごく面倒臭いやり方しかなかったし、当時は遅延補正が効かなかった。だから音楽を作るのには全然向いていませんでした。そこからどんどん改良されて今の状態になってきて、昔と比べたらはるかに作業が早くなっていると思います。

岩崎:オブジェクトの概念を把握しておくことが大事だよね。

齋藤:その方がやりたいことに直結すると思うので、知っておくといいですね。

岩崎:基本的にクリエイターはチャンネルベースの考え方しかわからないから、まずはオブジェクトの考え方を把握することと、チャンネルベースでトライしてみることかな。

齋藤:その前に、まずはアトモスの音を聴いてみてほしいですね。聴くとちょっと意識が変わると思います。

岩崎:スピーカーよりヘッドホンで聴く方がアトモスの効果を強く感じられる?

齋藤:むしろスピーカーの方が感じられます。ヘッドホンは遠近感を感じさせるために、ある程度の残響を付加することになってしまうんですが、音楽クリエイターにとっては自分の意図しないリバーブが若干付くので嫌かもしれません。そこが今の技術の限界かなと思いますが、いずれは良くなると思うので。最近 Sony が 360 Reality Audio の技術を使って、実空間を自分の耳で完全に再現できる技術を売りに出していて、それがすごいらしいので、ヘッドホンでももっといい状態で聴けるようになるかもしれません。

岩崎:本格的なアトモスミックスをするには、勉強しないといけないことがたくさんあるね。DAWに付いているアトモスの機能でトライ・アンド・エラーができるから、毛嫌いしないで積極的に情報を取りにいくことが大事だよね。

齋藤:そうすれば違う世界を作れると思います。例えば、ステレオミックスとは違うアトモスミックスを作ることもできるし、ステレオミックスの延長線上にあるようなアトモスミックスを作ることももちろんできる。それを作りたいと思うかどうか、楽しめるかどうかが一番大事です。興味を持ってもらうことが一番ですね。

岩崎:興味を持ったら、まずはチャンネルベースから始めてみる。チャンネルベースなら比較的簡単で、ヘッドホンでもできるもんね。オブジェクトベースの考え方とは別に、チャンネルベースと Renderer を覚えるのが入り口になるかもしれない。

2024年の問題作はピーター・ガブリエル『i/o』


岩崎:齋藤君がアトモスミックスを始める前によく聴く参考音源はある? 特にアトモスらしさを感じることができて、頭の中を真っ白にさせてくれるような。

齋藤:1曲に絞るとそこに寄ってしまうので、いいなと思った楽曲をプレイリストに貯めておいて、ダーッと聴いていきます。そうすると自分の中が平均化されるので、そこから作業を始めることができます。

岩崎:これぞアトモスって思う、やり過ぎなくらいの楽曲はありますか?

齋藤:一番問題作だと思ったのが、ピーター・ガブリエルの『i/o』という新作アルバムのリード曲である『i/o(In-side Mix』です。意外にすごいことをしているなと思いました。

岩崎:(試聴して)なんでこんなにキックの位置を高くしたんだろう。

齋藤:普通なら絶対やらないアプローチですよ。低音楽器をこの高さでサイド気味に広げるのは禁足に近いと思う。細かくスピーカーをソロにして聴いてみると、フロアのスピーカーすべてとリアハイトにキックがいるようです。もちろん均等の分量ではないんですが。

岩崎:でも明らかにキックが目より上の位置から鳴っているのに、低音のタイトさにさほど不満感がない。ボーカルの位置も随分高いよね。いいのかどうかはわからないけど、聴いてみるには値するかもしれない。試しに右を向いて聴いてみても成立しているのが面白い。

齋藤:だからこのアルバムは不思議なんですよ。よくこれで成立するなと思う。誰が考えたのかわからないけど、ピーター・ガブリエルがそうしたいって言ったのかもしれない。

岩崎:ピーター・ガブリエルって天才系の人だからね。

齋藤:すごいものを作ったなと思いました。去年の最大の衝撃はこれでしたね。

※追記:この取材は1月29日に行われましたが、その後日本時間の2月3日に第67回グラミー賞が発表になり、このアルバムが最優秀イマーシブ・オーディオ・アルバムに選出されました。さすがピーター・ガブリエルですね。

プレイリスト
▲齋藤氏が空間オーディオのチェック用に使用しているプレイリストの一部

iLoud Micro Monitor Pro が出たことで状況が急激に変わった


齋藤:今日は iLoud Micro Monitor Pro でアトモスの音を試聴しましたが、当初、こんなに小さいスピーカーだとアトモスは難しいかなという先入観があったんです。だけど想像していたよりもレンジが取れていて、ベースマネジメントをかけなくても低音が充実していました。低音が誇張されているわけではなく、ちゃんと鳴っているからポテンシャルが高いですよ。iLoud Micro Monitor Pro が売れているとは聞いていましたが、その理由がわかりました。持ち運べるサイズだし、スピーカーを11台、サブウーファーを1台買ったとして50万円余りですか。以前はアトモス環境を組もうとすると、簡単に100万円を超えてしまったので、iLoud Micro Monitor Pro が出たことで状況が急激に変わりましたね。

岩崎:サイズは小さいけど、小さいスピーカーが無理して鳴っている時の筐体鳴りの感覚は少ないですね。

齋藤:前モデルよりボディがしっかりしているからだと思います。以前の iLoud Micro Monitor はプラスチッキーでしたけど。

岩崎:筐体鳴りがあると置く場所も選ぶから嫌だけど、これは良いかもしれないね。もともと評判が良かったからね。安いし音もいいし、サイズが小さいから、例えば家で Genelec や YAMAHA のステレオモニターを使っていたとしても、その間にポンポンと置いてアトモス環境が作れる。

2ショット
▲iLoud Micro Monitor Pro によるアトモス試聴環境(フックアップ・ショールーム)

齋藤:ある程度サイズのあるスピーカーだと、設置するスペースが取れないけど、このサイズでこれくらいの音が出るなら設置しやすいですよね。僕は6畳の部屋でギリギリ設置していますけど、それだとスピーカーまでの距離が1m取れるかどうかなんです。距離の基準は特にないですが、やっぱり1m以内だと本当に近いなと感じます。それ以上は近づきたくないです。

岩崎:あまり近いと音が出た瞬間に耳がそこに行ってしまうからね。空気を鳴らしている音ではなくて、スピーカーの音がしてしまうんだよね。

齋藤:あと低音を聴くにはどうしても距離が必要なので、1mは相当な限界だと思います。iLoud Micro Monitor Pro は前後の幅も狭いぶん、大きいスピーカーより距離が取れます。

岩崎:これは元々イマーシブ用途を狙った製品なのかな?

齋藤:狙っていると思います。背面に80Hzで切れるディップスイッチが付いているから、これはベースマネジメントを狙った設定なんじゃないかな。イマーシブのサテライト・スピーカーとしての狙いは絶対ありますよ。

【関連記事】IK Multimedia iLoud Micro Monitor Pro 試聴記:Dolby Atmos環境構築が容易な小型モニター(齋藤氏のnote)

iLoud Micro Monitor Pro
▲iLoud Micro Monitor Pro は底面にネジ穴があり、マイクスタンドを利用して設置が可能。ハイトスピーカーとしての設置も手軽に行える

これからのアトモスについて


岩崎:イマーシブ・オーディオは今後どうなっていくんでしょうか? どんどん進化していて、NHK の22.2ch音響とか、Sony 360 Reality Audio とかいろんなものがあって、一応市民権を得ているのがアトモスだとして、さらに飛躍しそうな兆候はあるんでしょうか?

齋藤:やっぱりヘッドホンとの連携ができるということで敷居が下がったのと、テレビ放送も含めて映像コンテンツがイマーシブ対応に徐々になってきているので、たぶんイマーシブ自体がなくなることはまずないと予想されます。あと、もうひとつのキーポイントとして、バイノーラルの技術がもっと進むと、本当の意味での感動体験を得られるユーザーが増えるので、それに期待しているところです。

岩崎:90%以上の人がアトモスの体験をイヤホンですると思うから、スマホを持つことがアトモスの体験の入り口になっていくとするならば、イヤホンやヘッドホンのソフトウェア的な進化がないとどうにもならないだろうし、いろんなメーカーがきっとそこに力を入れてくるでしょう。

齋藤:視覚情報もそうですが、バーチャルの技術が進化するのと同時に音も進化すると思うので、両方のトータルで何かが進化していくと思うんです。ひとつは、スピーカーのバーチャルがもっと進化してほしいです。サウンドバーで上から音を感じたり、ちょっと広がりを感じたりもしますけど、リアルなスピーカーの音を聴いている人からすると物足りないというか、広がり方に嘘っぽさがある。それを上手にフォローする技術とかが進化してほしいですね。

岩崎:広がりに関して言えば、サウンドバーはちょっとパワー不足だよね。

齋藤:サウンドバー1本よりも、オプションとして拡張できるサテライトスピーカーがあったりすると、かなりすごいところまで出るんですけどね。

岩崎:リアに置いたり、ハイトに当たるスピーカーが付いていて、電源も音声もノーコネクトでいける製品ってないんですか?

齋藤:確か JBL から、両端のスピーカーを外してリアに置ける完全ワイヤレスのサウンドバーが出ていたと思います。充電式のリアスピーカーですね。

岩崎:僕はコードがとっちらかるのが許せないから、オーディオと電源が完全ワイヤレスになればいいな。

齋藤:オーディオのワイヤレス化はそんなに難しくないので、電源が最大のネックですね。同期する仕組みを作っていればできるし、実際5.1chのワイヤレススピーカーとかはいっぱいあるので。

岩崎元是氏
▲岩崎元是氏

アトモスの音を適正な音量で聴いてみることが第一歩


岩崎:僕はどちらかというとオケを作ったり、楽曲制作の方がメインだけど、アトモスをやってみる価値はあるのかな?

齋藤:クリエイターさんほど、やる価値がすごくあると僕は思います。興味があるなら挑戦してみて、自分のアトモス作品を作ってみて、それがたぶん違う何かを生み出すと思います。ステレオでしかできないことと、アトモスだからできることにはちょっと差があるから、その差を体感して何かを感じてもらえたら、その先に何かがあるかもしれません。

岩崎:レコーディングスタジオの埋め込みのスピーカーで、アトモスを聴くチャンスってプロでもそんなにないじゃないですか? そういうのを聴けるスタジオレベルの場所は、日本のどこかにありますか?

齋藤:スタジオに問い合わせられる人なら、スタジオで聴かせてもらうことはたぶんできると思います。あるいは、AV機器のショールームでアトモス環境を用意しているところがあります。それ以外に有料レンタルしているレンタルシアターもあるので、例えば Apple TV などのセットトップ・ボックスがそこに備わっていれば、そのソースを聴いたり、Blu-ray オーディオのソフトを持ち込んで聴くことができると思います。

岩崎:本当のアトモスの音を適正な音量で聴いてみることが第一歩だよね。

齋藤:そこで凄く衝撃を受ける人もいると思います。実際に始めた人は大体そういうパターンでした。

岩崎:斎藤君も本当のアトモスを聴いて可能性を感じたわけじゃん。モノがステレオになった時に匹敵するぐらいの可能性を。やっぱり本当の音を聴いてみることが必要だよね。

齋藤:聴いたら何かが変わるかもしれないとは思います。そうでなくても、例えば頭の中に音楽の空間というものをイマジネーションできる人は割と入ってきやすいと思うので、そういう方だったら、入り口としては早いと思うんです。そういう意味でも聴いてほしいし、チャレンジしてほしいです。

岩崎:アトモスはいろんなことができるけど、良くない音楽を良くしてくれるわけではないから、基本的にはいい音楽を作るのが大前提だね。クリエイターはそこがまず一番で、その先のことだから。

齋藤:むしろいい曲だったら、それを拡張することができます。ライブ作品とは本当に相性がいいですし、スタジオ作品でも半球面の中で表現できることがいっぱいあるので。

齋藤晴夫氏
▲齋藤晴夫氏

写真:桧川泰治

岩崎元是(いわさき もとよし)

作/編曲家、ボーカリスト。80年代ジャパニーズ・シティポップ全盛期のアーティスト活動を経て、その後スタジオ・コーラス・ミュージシャン、作/編曲家として多くの作品に参加。J-POP、アニメ、劇伴、ゲーム関連、CM等、幅広い制作に携わり、近年はミキシング、マスタリング等のエンジニアリングも自身で手がける。クリエイトの範囲を益々広げる、自称「歌わぬシンガーソングライター」。

齋藤晴夫(さいとう はるお)

1987年日本電子専門学校卒業。discomate studioでの研修を経てmit studioに所属。25歳でアシスタントを卒業、チーフエンジニア就任。1999年4月、12年勤めたmitスタジオを退社。元ビクタースタジオのエンジニア臼井伸一氏と“THERMAL MIX”を結成。フリーランスエンジニアとして活動開始。2019年、Dolby Atmosと出会い、翌年自宅にDolby Atmos 7.1.4 Mix環境を構築。2023年、アメリア カリフォルニア州のEMBODY社が主催する“Overdrive Immersive Mix Conpetition”にて優勝。現在もDolby Atmosのレコーディングからミックスまでを実践中。
https://www.haruosaitoh.com
・Dolby Atmos 関連に特化した note 記事
https://note.com/haruo_saitoh

関連記事

ページトップへ